Japanese Translation, Moving from the Still Point of Support

サポートのある静かな所から動き出す
アレクサンダー・テクニークの1つの解釈
トミー・トンプソン
「Exchange」ATI Journal Vol.2 No.2 1995 より
著作権 トミー・トンプソン 版権所有
この内容を、ダウンロードしたり印刷やコピーを行い他の人に渡すことができます。必ず上記の著作権等の情報、最 後にある略歴・連絡先を載せてください。

回転する世界の静止点で、
肉体があるとか、肉体が無いとかでなく、
どこからとか、どこへというわけでもない その静止点には、
踊りがある 捕われでも、動きでもない
それを固定と呼んではいけない
過去と未来が集う所
どこから来る動きでも、どこへの動きでもない
昇るわけでも、降りるわけでもない
その静止点以外には、踊りはない
そこには、ただ踊りだけがある
T .S. エリオット

何年も前、わたしは小さな女の子とワークした。アナと呼ぶことにしよう。彼女は 7 歳だった。母親と 父親は離婚寸前で、無理もないことだが、彼女の感情は揺れ動いていた。アナには、少し脊柱側彎(背 骨が横方向にカーブしている状態)があった。状況は深刻なものではなかったが、彼女は身体を片側に 引き込んでいた。家庭状況から起きる緊張が、それをひどくしていて、肩を下方向に強く引き、まるで 自分自身を抱きかかえるかのようだった。父親がアナをレッスンに連れてきて、わたしが彼女にワーク することで、脊柱側彎によりひどくなっていた肩の下方向と内側への引き下げは減り、完全になくなる までになった。

問題のある肩に、血液とエネルギーが突然流れ出したので、経験から、わたしはアナが気絶しないかと 心配した。どう感じるか彼女に聞いたら、目まいがすると言うので、教えるときに使うテーブルの上に 彼女に横になってもらった。少し元気になったので、目まいを感じる前にはどうだったかを尋ねた。彼 女は、「檻の中のトラのようだった。」と答えてくれた。

縛り付けられ抑圧された感情は、彼女にとっては、強固に閉じ込める檻のようなものだった。少し後に、 テーブルの上で彼女にワークしながら、「どう、アナ? 今はどう感じる?」と尋ねた。彼女は「サー カスのピエロのようだわ。」と答えてくれた。エネルギーが動き出したのだ。トラはピエロに変わり、 檻はサーカスになった。少し後に、ワークをさらに続けながら「いまはどう、アナ?」と尋ねると、「電 球のようだわ。」と答えた。

アナは、両親の争いで動けなくなっていた「自分自身」を放射していた。彼女の小さな命は、負の影響 を与えていた外側の力とは異なる何かとつながった。彼女がそのレッスンを、自分自身に微笑むことの できる体験に変えるのを見たので、「アナ、いまは何を体験している?」ともう一度聞いた。「ええと。 誰かが電球のスイッチを切ったみたい。でも電球はまだあるし、内側はおだやかに光っているわ。」と 答えた。小さな女の子がそれを言ったのだ。そのレッスンを見ていた父親は、泣き出した。彼の娘は、 ゆったりした気分になり、安全を感じることができ、外部の世界の気まぐれな矛盾の影響を受けずに済 むようになっていた。

確かに、人のコントロールの及ばない状況や出来事は起こる。でも直接的な体験によって、自分自身の 内なる存在が、自分と生活全体との間にある深い関連性から生じるサポートを持っている、と知ったな らば、「荒れ狂う運命からの投石や矢」は、その人の火を静めたり消すことはできない。その火は輝き で望みであって、自分の習慣的なアイデンティティの下に隠れているが、もっと大きなものに属してい て、その一部なのだ。

どのようにアナの話がアレクサンダー・テクニークと関係するのだろうか。わたしたちの身体の中には、 姿勢反射のメカニズムがあり、毎瞬毎瞬にバランスを取っている。邪魔がなければ、それはうまく働き、 わたしたちの動きを楽に、優雅に、流動性を持つものにしてくれる。日々の生活の責任を果たしながら 他の人と交わるときに、目的感と幸福感をもたらす。しかし、わたしたちが、もしそのメカニズム(す なわち姿勢反射)の邪魔をしたら、代償を払わなくてはならない。

ここに、問題がある。

身体は、わたしたちが「自分自身」という感覚を表すものだ。その身体に対して、余り親しみを持てな いため、わたしたちは、何かを「行うこと」や「しがみつく」ことで、自分へのサポート(支え)を作 りだし、バラバラにならないようにする。

例えて言えば、わたしたちは新生児のようなものだ。へその緒が切られたその瞬間に、赤ちゃんは生存 できるかどうかを危うく感じるだろう。必要な栄養源と繋がっていた優しい糸が切られるときに、空間 が現れ、要求が充たされなくてはならない。そして、それからすぐに安全が得られなければ(すなわち、 誰かがすぐに抱いてくれなければ)、小さな自分だけがサポートだという危ない状態になる(そして、 繋がりを排除するという状態にまで至る)。

この考えはもちろん間違っている。サポートがあるという事実は、消えるわけではない。繋がりについ ての気づきが消えるだけで、それは相互作用的に働く。赤ちゃんは、手を伸ばす反射があるので、手を 伸ばそうとするし、大人は保護者としてそれに反応する。ところが、大人が反応しなければ、手を伸ば したその子は、次の機会を待たなくてはならない。待っている間、その子は自分自身でサポートを作り 出し始める。

まだ幼い生命が、自分の周りについてのある種の気づきから行動を始めるとき、繋がりを失うときには、 自分自身を相互依存しない存在だと定義してしまう。「アイデンティティの習慣」注1 の動きを使ってサ ポートを作りだす。わたしたちは、自分を「相互依存する存在」注 2 と考えなくなる。その結果、他人の 真似をしようとする。自分にサポートの気づきがなく、それにアクセスすることができない人たちの真 似を。

実際的に言って、わたしたちの体験をサポートがあるものにするためには、いかに、そしていつその相 互作用の邪魔しているか、見つけなければならない。調和のないやり方をさらに悪くせずに、全体の気 づきに戻らなくてはならない。でもその体験は、サポートがあることに人が気づいているときだけ可能 になる。それがないと、随意筋を使い、姿勢反射と筋肉反応の邪魔をする。すると、希望や夢、願望を 達成しようとして、わたしたちが設計されている意図とは異なった方法で自分を使う。そのとき、一日 を生きることは、楽しみよりも努力が多くなる。関係性は作られず、互いに支えにならず、重荷の多い ものになる。明確な目的があっても、動きに懸命な努力を要するならば、活き活きとした状態からの喜 び、生活の絶え間のない「踊り」の中で共に動くことから起こる喜びは、どこにあるのだろう。

F.マサイアス. アレクサンダーが言ったのは、統一状態をもう一度手に入れるためには、「完全に立ち止 まり、全てのものが統一体であると思い、意識的でシンプルな生活に戻ること」(「個人の建設的で意 識的はコントロール」)だった。この存在のシンプルな状態に戻るための彼の「手段(ミーンズ)」は、 進行中の「現在」の毎瞬毎瞬の変化にコミットすることだった。彼は、どのような目的・ゴール・「結 果」を頭に描き追い求めるときにも、自分の使い方を、高度に鍛錬された方法で観察することが必要だ と教えた。

アレクサンダーが「完全に立ち止まる」で意味したのは、そのときに見つけた建設的でない、全体の調 和を乱すいかなる反応への同意も差し控えることだった。そのときに、気づきを広げ、全く違った反応 を行う。これを達成するためには、特定の「手段(ミーンズ)」を使うことになる。それにより、姿勢 反射が働くように注意を向ける、姿勢反射の機能は相互作用的にできているので、気づきと知覚の統一 場を作り上げる。

彼がテクニークを進化させた期間に自分に観察したことと違いはなく、彼のメソッドを他の人に教える ときに、信頼できない運動感覚(自分がどう動いているかの感覚)が、学びの主要な躓きの石であるこ とを、アレクサンダーは見つけた。「しっくりくるように感じたい」ために、人がいつも自分になじみ のある動きをしてしまうことを確信した。この問題に対処するために、彼は手を使い、習慣的な反応と 非習慣的な反応の両方の運動感覚を教える方法を編み出した。先生が手を使うことで、習慣的な反応で 動いてしまう人に、失われた運動感覚の情報を与えることができる。

前のなじんだ方法を手放すことは、生徒に不安を感じさせる。しかしアレクサンダー教師の手が、自分 は一部しか気づきのない切り離された人ではなく、全体的で完全な人であることの自信を持たせるので、 生徒は前の信頼できない習慣を安心して手放す。人はそのとき動き始め、人間有機体の設計にそって、 自分の周囲と相互作用的な関係を持つ。生徒は自分の内なる支えのシステムがある事を知覚し、認識し、 それがあると感じる。必要で適正な事の他には、「何かを行う」必要は少なくなる。

アレクサンダー・テクニークは、自分のいろいろな運動感覚のなかから、習慣とアイデンティティに密 接に結びつくものが何かを識別することを教える。そして学習した多くの行動の中から、建設的で相互 に役立つ反応の邪魔となるものを、どう取り除くかを教える。気づかなかった振る舞いのパターンを知 り、それを続けないことを選択するための実際的な方法としてこの学びを使うことは、学びの幅と関係 の質、人間の可能性を拡げてくれる。変化をもたらすことと非習慣的な選択を行うことに興味を持つ全 ての人に、このテクニークは役立つ。毎日の他とのふれあい、生活全体の体験の可能性が豊かになる。

「全ての物が統一体である」ことに、自分も含まれる喜びを体験するためには、現在(今)にいること に積極的にコミットする必要がある。活動は全て前向きのものだとは考えられないし、何が適切かは、 「最終的な」結果の達成だけを考えるのであれば、状況によって変わる。

成し遂げたいことの「手段」に注意を払わなければ、生きる中での「移行」の瞬間を見逃してしまう。 その瞬間は、全てが可能性で、生命に向っていて、完全に相互作用・相互依存的な凝縮された全体に向 かっている。習慣的な反応に悩まされ、責任の感覚に動かされることで、わたしたちは自分たちの相互 作用的な特性とは別に活動する。そして、しばしば、参加のきっかけを見逃してしまう。

「支えがあることの喜び」は、認識され、耳を傾けられ、承認されることを待っている。それは捕まえ にくく、既知と未知の間の空間、存在の静かな場所にある。そこでは全てが可能性で、まだ未定義の関 係性しかない。それは、日の出や日没前の瞬間のようで、息を吸って吐くときのその間の時間にある。 生きる上の慣れた習慣的な反応を控えることで作り出す空間の中に、その喜びは潜んでいる。

アナの「電球」は、実際に存在している。子供の想像の中にだけあるのではなく、関係性のシンプルな 表現として反映されている。彼女の生命と、全ての生命との関連性の中に反映されている。彼女のひら めきは、わたしたちは習慣のアイデンティティの下で、もっと大きなものに支えられていて、わたした ちはその一部であることを示唆している。

電球を明るく光らせ続けるには、瞬間々に、サポートとなる静かな所、そこからの動きでも、そこへの 動きでもない動きに参加することを必要とする。

そして、とりわけ「それを固定化と呼んではいけない。」

注1) Ken Carey, Starseed, The Third Millennium, Harper, San Francisco, 1991
注2) ベトナム人の禅僧が、「相互依存する存在」という言葉をある経典から導き出した。これは、現在に居続ける ことを意味 している。なので、「わたしはそれゆえ、あなたであり、あなたはそれゆえ、わたしである。わたしたちは、「共にある もの」 だ。」